私らしく。

この生き方に憧れる#02

COLUMN 心のおやつ| #この生き方に憧れる

この生き方に憧れる

本や映画の登場人物の生き方には
人生のヒントが詰まっています。
そんな「洒脱な生き方」について
山内マリコさんに寄稿していただきました。

山内マリコさん

やまうち・まりこ 『ここは退屈迎えに来て』でデビュー。2021年『あのこは貴族』が映画化された。近著に『あたしたちよくやってる』など。

寝付けない夜の出会い

その映画と出会ったのはけっこう最近のことだ。うだうだと寝つけない夜、スマホに入れた動画配信アプリをさわっていると、古めかしい感じのするタイトルに指がぴたりと止まった。『チャーリング・クロス街84番地』。なんとはなしに再生したところ目が離せなくなり、そのまま一気に最後まで観てしまった。
アン・バンクロフト演じるヘレーンはニューヨークに住む脚本家。1949年のある日、彼女は愛するイギリス文学を求めて、ロンドンのチャリング・クロス街84番地にある古書店に手紙を出す。絶版本を専門に扱うマークス社は本を渇望するヘレーンのリクエストにこたえて本を送り、それから20年に及ぶ交流が描かれる。彼女と友情で結ばれる書店員のフランクを、アンソニー・ホプキンスが演じている。
ヘレーン・ハンフは実在の人物だ。1916年に生まれ、1997年に80歳で亡くなっている。ニューヨークで舞台の脚本を書いていたようだが劇作家としては芽は出ず、やがて黎明期のテレビ番組の台本を執筆する脚本家となる。『チャリング・クロス街84番地』は彼女が50代半ばのとき、1970年に出した書簡集だ。

無性に好きな女性

映画化された1986年、彼女は存命だった。自分を演じているアン・バンクロフトとともに写ったスナップが『続・チャリング・クロス街84番地 〜憧れのロンドンを巡る旅〜』に載っている。劇中のヘレーンの衣装がちょっと野暮ったいせいか、当時70歳のヘレーン本人の方がよっぽどファッショナブルで若々しく見える。大都会で自立して生き、自分のやりたい仕事をあきらめず、そのうちに道が拓け、思いがけない成功を収めたヘレーン。女性が、生きるためには結婚せざるをえなかった時代を考慮すれば、かなりイレギュラーな人生を送った、骨のある人物であったことは間違いない。わたしはヘレーン本人の筆致から感じられるキャラクターも、アン・バンクロフトが造形した映画版のキャラクターも、どっちも好きだ。すぱすぱ煙草を吸い、グラスに注いだお酒をおいしそうに飲みながらタイプライターを叩く。本をめくるときの満ち足りた表情。お茶目で辛口のユーモアセンス。こんなふうにきりっと自分の足で立っている、ちょっぴり癖のある女性が、わたしは無性に好きなのだ。

ヘレーン本人(左)と、映画でヘレーン役を演じたアン・バンクロフトの貴重なスナップ写真。

洒脱な生き方

原作を翻訳した江藤淳は解説で、ヘレーンのことを孤独でさびしい老婦人のように想像しているけれど、それは本好きな独身女性に対する当時の偏見だろう。オールドミスだとか老嬢といった言葉でカテゴライズされる女性は、さびしくて哀れで不幸という思い込みがあった。ヘレーンのように前向きでハッピーなシングルの中年女性は、その時代の日本の価値観からすれば、想像力の範疇外だったのかも。映画は、文通だけで国籍も年齢も性別も飛び越えて本物の友情を結べる、ヘレーンの人間味と洒脱な生き方をさらりと描く。生きていればさびしい夜だってあるが、それをわざわざ強調するような、お節介な描写がないところがいい。

深い人生哲学をみる

ヘレーン・ハンフについて調べていたら、彼女がマークス社からイギリス文学を取り寄せていたのは、「self-educationのため」と書かれた文を見つけた。独学や自学と訳されるが、ヘレーンの場合、そこにはもっと深い人生哲学のようなものがある気がした。自分の興味を深め、学び続けようという向上心があれば、どれだけ歳をとっても精神は老いない。これは生きる態度なのだ。

『チャリング・クロス街84番地』増補版

『チャリング・クロス街
84番地』増補版

ヘレーン・ハンフ著/中公文庫

ニューヨークに住む脚本家ヘレーンとイギリスのチャリング・クロス街84番地の古書店の店員フランクとの交流を描いた往復書簡集。その後、イギリスへの旅の記録をまとめた続編も。