苦悩と波乱に毅然と
立ち向かう姿は美しい
創作上で出会った魅力的な人物を思い浮かべてみる。私が好奇心を唆られるのは、傷つくことも悲しむことも承知のうえで、それでも懸命に人生を突き進んでいる人のことかもしれない。生きるということが決して自分の思い通りにはならず、苦悩と波乱に満ちていても、そうした現実と毅然と向き合って、縦横無尽に感性と知性を鍛えながら生きている人には、意図的には身に纏うことのできない輝きが発生する。自分の力と勇気で自分を守ることができている人には、例えば容赦ない大自然の中で生きている野生の動物を思わせるような、時代や地域さえも超越させる、凛と研ぎ澄まされた地球レベルの美しさが宿っているように思う。

『ノマドランド』
主人公の生きる場所
昨年公開されたクロエ・ジャオ監督の『ノマドランド』の主人公ファーンは夫に先立たれ、リーマン・ショックの影響に煽られて教員としての仕事も住む家も失い、その後は自家用車で寝泊まりしながらネット通販会社の倉庫などで働いて日銭を稼いでいる60代初頭の女性だ。
映画の中で、偶然スーパーマーケットで出会ったかつての教え子である少女から「先生はホームレスになったの」と問われ、ファーンは惑わずに「わたしはホームレスではない。ハウスレスよ」と答える。では彼女にとってのホームとは何なのかと考えさせられるわけだが、普段寝泊まりをしている車と捉えることもできるけれど、映画を見ているうちに答えはそれほど短絡的なものではないということがわかってくる。
広大な土地を有するアメリカには、ノマド(遊牧民)といわれる、車上生活をしながら生きている人々がいる。彼らは時々どこかに集って交流し、情報交換をおこなったあと、また再び散り散りに去っていく。要するに、群れへの帰属を欲していない。しかし、人間が誰しも求める幸せとは家族や社会という組織に帰属して生きることだと信じてやまない一般の人間にとって、群れることを必要としないノマドの生き方は理解しがたいものがあるし、存在そのものが穏やかではない。
映画の中でもファーンは円満な家庭を営む妹と一緒に暮らすことを提案されるが、そんな妹による人間的幸せの見解を拒む。その後、悪天候で荒れた海の見える崖を訪れたファーンが、雨に打たれながら両手を広げ、解放された表情で空を仰いでいるシーンが素晴らしい。
ファーンはお化粧もしていなければ、髪もさっぱり短く、艶も色気も無いはずなのに、舞台となっているネバダ州の大自然を薔薇色に染める太陽の光の中での彼女の、孤高かつ気高い佇まいは美しい。
人間嫌いの老女ドーラの
魅力的な表情
今から20年ほど前に公開されたブラジル映画『セントラル・ステーション』の主人公である初老のドーラという女性もまた、魅力を感じ続けているひとりである。
ドーラはリオデジャネイロの中央駅で、非識字率の高いブラジル社会を反映した職業といえる手紙の代筆業を生業としているが、自分の生き方を確立したファーンに比べるとよほど世俗的であり、惑いもあるし、社会の抱える問題などほぼ関心がない。家族に恵まれず、誰かから愛されることも誰かを愛する経験も不十分で、他人のことなどどうでもいいと思っている人間嫌いのこの荒んだ女性が、縁もゆかりもない10歳くらいの男の子を、父親の移住地まで連れていくことになる。
この作品でもやはり社会や家族への帰属という人間的テーマが軸になっているが、孤独な者どうし、血のつながりを超えた少年との間に芽生えた敬いと愛情を受け入れたときのドーラの、それまで自らをきつく縛り続けてきた縄から解かれたような、優しく切ない表情が眩い。
人間の揺るぎない美しさは何によって司られていくのか、安穏とした生活の中では見つかりにくい答えを、この二人の登場人物は教えてくれる。

『ノマドランド』

『セントラル・ステーション』
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