私らしく。

親子レター#01

満生幸子さん
米屋を営んできた81歳の父へ
「敵わない、でもそれで良い」

column 心のおやつ| # # #

心のおやつ

私たち一市民は、ニュースになるような大きな話題はつくれませんが、それぞれの町で誰かを思いながら毎日を生きています。親子であればなおさらです。当連載「親子レター」では、ある家族の小さな声、一片の物語を拾っていきます。第1回は、ずっとずっと米屋を営んできた81歳の父に送る、娘からの手紙です。

満生幸子さん

まんしょう・さちこ 福岡の雑誌出版社を経て、フードコーディネーターのアシスタントを長く務める。結婚を機に福岡を離れ、現在は神奈川県逗子市に暮らしながら、フリーのフードコーディネーターとして活動。毎月、エッセイ『キッチンノート』を執筆。湘南ビーチFMで朗読されている。

店の電話が鳴りました。幸子さんの母・和子さんは「はい、米屋です」と。屋号を添えないこの一言に、店がいかに町に根ざしていたかを垣間見た気がします。2024年の2月某日、「お父さんっ子だった」という幸子さんの手紙を父・博文さんに読んでいただきました——。

お父さんへ

今年も田舎の家の八朔を沢山送って頂きありがとうございました。
段ボールを開けた瞬間ふっと漂う甘酸っぱい香りを嗅ぐ度に壊しい田舎の春の風景が浮かんできます。
遠く離れて暮らしていてもお父さん達の存在や福岡の街並をいつも身近に感じていられるのは、こうして四季折々の果物や何気ない博多の味を届けてくれるお陰と、本当に感謝しかありません。
結婚し福岡を離れ25年。我が子が独立するいい年のおばさんになったというのに、情けないかなお父さんには何かと助けて貰うばかりですね。
世間では歳をとると親子の立場が逆転するなんて話をたまに耳にしますが、我が家においてはそれはあり得そうにないかな...。
だってお父さんは未だに歩き続ける人ですから。
80歳を過ぎても尚、変らず夫婦で米屋を営み、休日は休むどころか二人仲良く山登りに出掛けるその体力に舌を巻きます。
58歳の時に入学した放送大学では22年間を掛け、6個も学位を取得しましたよね!! その向学心と持続力に感服です。
兎にも角にも、お父さんは偉大過ぎて逆転どころかまだまだ足元にも及びません。でもね、それで良いのです。
私はお父さんの娘でいられ続けてとても幸せですから。
どうかこれからも身体を気遣いながら満生博文さんのパワフルさとユーモアを私達家族に見せつけて下さい。
お父さんの飽くなき人生への挑戦を楽しみにしています。

幸子

博文さんに宛てた、幸子さん直筆の手紙。

3人の子供が巣立ったいまでも
毎日店に立つ理由

褒めすぎですよ(笑)。親が普通、娘も普通。鳶(とんび)からなんとかは生まれませんから。
学校行く時は店のドアを開けて「行ってきます!」って言いよった。軽トラの横に乗って配達にもついてきよったなぁ。言うこと聞かんやったら「立っとけ」ち言うて、店の前に立たせよったです。通りやから恥ずかしかったろう。

私が高校ん時は、すぐ近くに米軍の空港があって、朝鮮半島に緊急発進するのに、2機がいつもエンジンかけたまんまでね。うるさいんですよ。まだ旅客機なんて飛んでない時代ね。

高校出たらみんな集団就職で都会に行ってしまった。親の店に勤めた私は、この町から一歩も出とらん。物語にならんとです。米屋が忙しくて、幸子には構ってやれんやったです。保育園に送るたびに「早く迎え来てね」って言いよりました。わが仕事が増えるけん早よ行かんで、保育園に押し付けとったです。すまんやったね。

父・博文さん。18歳から現在まで米穀店で働いています。

神奈川に住んでて旦那の実家が山陰やから、ほとんど帰ってこん。一般的な話じゃ、妻の実家に帰る人が多いごたぁですけど、幸子はそれでいいんじゃなかかな。こっちの生活のペースが乱れますから(笑)。いや、ほんとは楽しみにしとるとですよ。

子供3人とも健康には恵まれて、大きなケガや病気にもあわずで喜んどります。何か抱えとったら電話が鳴るたびヒヤヒヤせないかん。枕を高くして寝られるていうのはありがたいことです。いずれ私はそういう年になるでしょうけど。

幸子の家族がみんな無事であるごと、願いよります。仕事は、暇になったと言うてもお客さんのある限り続けたいとです。お客さんのおかげで子供を育ててこれましたから、少しでも「お返し」をせんと。

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