私らしく。

自分らしさのコツ#20

片岡たまきさん
憧れのバンドがくれた「好き」の力と人生の転機

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私らしい、あの人

たまたま出合った1曲が、人生を大きく変えることがあります。日本を代表するロックバンド「RCサクセション」の元マネージャー・片岡たまきさんも、そんな経験をした一人です。思春期から何十年も変わらないRCへの思いや、憧れの人のそばで感じたことについてお尋ねしました。

片岡たまきさん

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かたおか・たまき 神奈川県生まれ。1982年「RCサクセション」の所属事務所に入社。約10年間、衣装係、マネージャー、ファンクラブ会報誌の編集を務める。忌野清志郎の交友録『忌野旅日記』では構成を担当。RCサクセション活動休止以降はロックシンガー・金子マリのマネージャー、2004年に再び忌野清志郎の衣装係に。現在は「パスカルズ」のサポート。著書に『あの頃、忌野清志郎と』(ちくま文庫)。

それは片岡たまきさんにとって忘れられない出来事でした。中学1年生の期末試験の勉強中、ふとつけたテレビの画面いっぱいに映った一人の男性。

「歯並びがきれいで、優しそうなお兄さんだな」

歌っていたのは当時22歳の忌野清志郎さん。後年、『雨あがりの夜空に』や『い・け・な・いルージュマジック』などで不動の人気を博した、日本を代表するミュージシャンです。派手なメイクと衣装がトレードマークになる以前の、きゃしゃで伏し目がちな青年でした。

「おもしろい曲だし、ヘンな声だなと思いましたね。『ぼくの自転車のうしろに乗りなよ』って、ふたり乗りじゃん! って」

その頃耳にしていた音楽とはまるで違うメロディー、歌詞、存在感。優しく、時に怒鳴るような歌声は「そこだけが別の世界、別の次元のように聞こえた」。片岡さんは一瞬で心を奪われました。

その日はバンド名も曲のタイトルもわかりませんでしたが、後日、深夜のラジオから流れてきた『ぼくの好きな先生』の歌声に「あの人だ!」。バンド名は「RCサクセション」とわかりました。

片岡さんの運命を決定づけたのは、その後、学校帰りに立ち寄った薬局で見つけた『RC・サクセションのすべて』という一冊の雑誌でした。表紙には、あの時のお兄さんを真ん中にメンバー3人の写真。片岡さんの胸は高鳴り、すぐにお小遣いで雑誌を買います。

いまも大切に保管している一冊。書き込みや切り抜きの跡に13歳の乙女心が垣間見えます。

「いつテレビに出るかもラジオで曲が流れるのかもわからないし、当時はこれ以外、本当に他になんにも情報がなかったから」

多感な中学生にとってこれが夢の一冊であったことは想像に難くありません。ボロボロになるまで貪(むさぼ)り読み、この雑誌からお兄さんは赤色が好きなことも、野菜好きなことも知りました。写真を切り抜いて教室の壁に貼ったり、キーホルダーにしたり。ギターの練習も始めました。

文字通り、この一冊は片岡さんにとって“RCのすべて”でした。

片岡さんがこれほど熱を上げたにもかかわらず、「当時は誰にもわかってもらえませんでしたね」。RCはまだマイナーな存在でした。

ですが、好みは違えど中学、高校生活で友人と互いに好きな音楽の話に花を咲かせる時間は楽しく、ドキドキしながら友人たちと都心のライブハウスに出かけることも。RC一色の青春時代を過ごしました。

自分の選択を信じることは
簡単ではないけれど――

次第に片岡さんの心にある思いが芽生えてきます。
「RCと一緒に仕事がしたい」
進路について考える時期だったとはいえ、その思いは大胆でした。

「社員の募集はしていないか事務所に電話をかけるんですが、何度かけても『していない』の返事ばかり。でもRCと仕事するって決めてたから、就職するわけにはいかなかったのよね」

笑ってそう話す片岡さんは高校卒業後、デザイン学校に2年、コピーライター養成講座に1年通い、その後、家業の手伝いをしながら時間を“稼ぎ”ました。

「だいぶ粘りましたよね(笑)。途中、焦ってきていたのか、『RC』という文字を見ればなんでもすぐに電話をかけたりして。『うちは劇団です』なんて言われたこともありました(笑)」

「全然変わってないなあ」。RCサクセションのマネージャー時代よく来た公園へ。金子マリさんから譲り受けた大切なブーツを履いて。

片岡さんのように「道はまっすぐ一本に続いている」と信じきることは容易ではありません。諦めの気持ちは湧かなかったのかと尋ねると、「しつこいからね(笑)」。しかし、こうも言います。

「誰もが、その時々で夢に向かおうとする気持ちを持ってるでしょう? たまたま私は夢が変わらなかっただけ――

たとえ途中で方向転換したとしても、それもまた夢に向かって選んだ道なのです。

思い続けて10年。ついにその時はやって来ます。片岡さんの言葉を借りるなら「たたいてもたたいても開かずの扉は、ついに開かれた」のです。

会報誌の誌面に「社員募集」の記事を見つけ、すぐさま電話。「失敗できない」と思いつつも、なぜかショートパンツ姿で面接へ。結果は見事採用。長年の願いが叶(かな)った瞬間でした。

曲を聴いた時からわかっていた?
清志郎さんの素顔とは

そこからは怒涛(どとう)の日々だったと振り返ります。5人編成のロックバンドに生まれ変わったRCの人気はすさまじく、見習いを経て衣装係となった片岡さんはメンバーと共にツアーで全国をめぐります。ステージが終わると、すぐに次のステージのため衣装を洗濯しなくてはいけません。

山のような衣装を抱えてコインランドリーを回り、不慣れなアイロンをかけ、メンバーの好みに合わせて楽屋を整える。合間に会報誌の取材と、仕事は尽きません。

清志郎さんの個展開催(2009年8月)に向けて、ステージ衣装を年代順に振り返った資料。片岡さんの思い出が詰まっている。

「忙しかったから、とにかく目の前にある仕事を一生懸命やっていました。でも楽しかったですよ」

一見、華々しい仕事のようですが、長期遠征に加え、常に重たい荷物を抱えての肉体労働。そのため当時、女性でツアーに同行する人はほとんどいなかったそうですが、メンバーと行動を共にし、濃密な日々を過ごしました。

「10年くらい経った頃かな、私、何やってるのかなと思った時期があったんですよね。自分を持て余すというか。何年も続けていると、『ふと』っていう瞬間ってあるじゃない?」

マネージャーになっていた責任感もあり「ライブは必ず見届ける」と決めていたのに、まさかの居眠り。そんな自分にショックを受けたそうですが、それでもRCから離れる選択肢はありませんでした。

「やっぱりRCのことが好きだったし、歌もライブも全部がすごくて。信じちゃってたんだよね......」

取材の終わり、スタッフとの雑談で清志郎さんの人柄について振り返る場面がありました。

現在は夫のロケット・マツさん(片岡さんの左)のバンド「パスカルズ」のサポートをしている片岡さん。写真はマツさんのライブ後の打ち上げにて。

「清志郎さんは、私が何か失敗しても頭ごなしに怒鳴りつけることはなくて、『たまき、こうしてくれるとうれしいな』みたいな言い方をするんだよね。すごく優しいの。でも、あのRCで、あの歌よ。もしかしたら私は、初めて歌を聴いた時からその優しさをわかってたんじゃないかな」

清志郎さんの名曲の一つに『わかってもらえるさ』という歌があります。
いつかきっとわかってもらえる......そんな心情を綴(つづ)った歌です。

観客もまばらなライブハウスでふり絞るように歌う、若かりし日の清志郎さん。その姿を熱い思いで見つめるあの頃の片岡さんの姿が目に浮かびます。

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