駅の裏通りを歩いていると、パーン! と響く耳慣れない音。あたりを見回したところ、体育館とマンションの狭間に小さな弓道場がありました。なんでも、市内で一番古いとのこと。月1回の「研修会」に、20代から70代までの男女が集まり、和気藹々(わきあいあい)と弓を引いていました。さっきの音は、矢が的に当たる音だったのです。
出迎えてくださったのは、この弓道場に30年通う久野洋子さん。転勤族だった久野さんは各地を転々とし、子育てがひと段落した頃、ある町の体育館で「弓道場」の文字を見かけました。
「へえ、弓か。ちょっとやってみたいわね」
自称・運動音痴の久野さんでしたが、ほんの軽い気持ちで初心者教室へ。弓道の基本的な流れや心得を表す「射法八節(しゃほうはっせつ)」を最初に教わりましたが、難しくてのみ込めないまま、まずは練習として1m先の的に向けて弓を引いてみることに。しかし矢をつがえた瞬間、思いがけない感覚に襲われました。
「怖いって思ったんです。どうしたら矢が飛ぶの、尖った矢尻がとんでもないところに当たったらどうしよう、やったことがないからわからない! って、混乱しました」
習ったことを思い返し、左手を押して右手を引いて、ようやく矢が飛んだ時、これまで聞いたことのない音がしました。
パン!
初めて矢が的に当たったのです。その気持ちよさ。
「もっと、この音を聞きたい、的に当たりたい、って思っちゃったんです」
うまくいかなくても焦らない
復調は円を描くように
この忘れがたい瞬間から弓道を続けてみようと思った久野さんは、定住を決めた町の小さな弓道場の門をたたきました。「先生と呼ばなくていい」というさばけた考え方の指導者や経験豊富な先輩たちの姿に学びつつ、少しずつ自分が目指す「射(しゃ・矢を弓で射ること)」を探っていきました。とりわけ難しいのは、「矢を離す」のではなく「矢が自然に離れる」状態に持っていくこと。
「心と体の状態が満ちて、いま、という時に離れるのが理想的。頭ではわかっていても、なかなか体がわかってくれないんですよね」
うまく離れる日があっても、次の日は全くできないことも。例えば、家で嫌なことがあって心が乱れていたとか? そんな素朴な質問をぶつけてみると、それはないと久野さんはきっぱり。
「何があったからできない、というものでもなくて。どんなに調子がよくても、そのうち悪いクセが出てきてうまくいかなくなって、またじりじりとよくなってくるんです。一つの円を描くように。昔はじたばたしましたけど、長く続けていると、また戻ってこられるのを焦らず待てるようになります」
そう思うようになったのは、始めてから20年が過ぎた頃。「もう引きたくない」とうんざりする時も、初めて的に当たった時の気持ちよさを忘れていないから、また射場(しゃじょう)に立てるのだと言います。
「なぜできないのか、それがわからないからやめられないんです。もし百発百中だったら、私は弓道を続けていないでしょうね」
一人ではなく仲間と
楽しく歩む道で目指すもの
武道には技量を評価する段級位制がありますが、久野さんは20年前に三段を取ったきり、昇段にはあまり興味がないとすがすがしい笑顔で言いました。
「何を目指すかは人それぞれですよね。私は、的中を目標にはしているけれど、ただ当たればいいとも思わなくて。実は、姿勢が崩れたみにくい射でも、当たることってあるんです。私はやっぱり美しい射で当たりたい。それが目指すところ」
弓道は「道」ではあるけれど、楽しく続ける趣味。そう思えるのは、この弓道場の気心知れた仲間の存在が大きいそうです。
「みんな好きな時に来て、弓を引いて帰る。"今日は肩が上がっとるよ"とか気軽に助言し合える信頼関係があってね。稽古の合間には最近読んだ本や時事問題の話なんかもして、世界が広がります。家庭や仕事から離れて、いろんな人と会える趣味の場があるって貴重です」
この弓道場には珍しいことに土の矢道(やみち・射場から的までの道)があって、季節の花々が咲き、鳥やチョウがやって来て野趣にあふれています。聞けば、庭いじりが好きな人たちが手入れをしているそう。夏にスイカを食べて種を飛ばしたら2玉も実った話は何ともほほえましいもの。
趣味は自分の意思だけで続けられるものでもない、という久野さんの言葉に合点がいきました。弓道場の壁にはこんな貼り紙が。
「的張(まとは)りは、やっつけ仕事でなく、的を慈しむ心でどうぞ。その心が的中につながります」
一人ではなく、みんなで歩むから続く。80歳の大先輩が書き残した言葉が、道を照らしています。
更新