私らしく。 by 再春館製薬所

稲垣えみ子さん
「アーユーハッピー?」とインドで聞かれて、考えた

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ストーリー

ご自身が大切にしている、これからも大切にしていきたい言葉や一文を、さまざまな書き手の方に紹介いただきます。エピソードを交えた軽快なスタイルで読める、言葉にまつわるエッセイです。今回は、元新聞記者で、生活や家事のルポが人気の稲垣えみ子さんの「お守りみたいな言葉」です。

本当に大切なことって
いったい何だろう

新聞社を50歳で早期退職する直前、入社以来一度も取れなかった有給をまとめ取りし、長年の夢だった南インドのアーユルヴェーダ・リゾートに20日間滞在した。

海辺で連日マッサージ三昧(ざんまい)というバチが当たりそうな贅沢(ぜいたく)。でもここはれっきとした治療施設で、毎日マッサージの前に必ず敷地内の病院へ行き、ドクターの面接を受けるのである。

つまり、いわゆる「病気」ではなくともここでは病人扱いをされるのだ。確かに誰しも、肩がこるとか胃もたれがするとか寝付きが悪いとか、さまざまな不調を抱えて生きている。人類みな病人と言えないこともない。

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面接のパターンは毎日ほぼ同じ。
「調子はどう?」と聞かれ、「喉がちょっと」などと言うと、ドクターは「痛みはあるの?」と聞きながら血圧と脈を測り、「大丈夫、ふだんどおりですよ」とにっこりし、その日のマッサージの内容説明をして「エンジョイ!」と気合を入れられお別れ。

私はこの面接がとても好きだった。
めくるめくマッサージより好きだったりして。
なぜこんなに好きなのかとぼんやり考えていたある日、面接の最後にこう言われてちょっと衝撃を受けた。

「ソー、エミコ アーユーハッピー?」

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仏像のような笑みを浮かべ、私の目を見つめるドクター。からかっているわけでも深刻に心配しているわけでもない、でもちゃんと聞いておきたいの、という気持ちが伝わってくる。

予期せぬ展開に「イエス、アイムハッピー!」「喉の調子もいいし」と慌てて答える私。ドクターはそうよかったとうなずきそのまま別れたんだが、その質問はいつまでも私の中に残った。

アーユーハッピー? いったい日本の医者で、そんなことを聞く人がいるだろうか。考えてみれば、病気を治すというのは手段であって、ほんとうに大切なことはその人が幸せかどうかである。逆に言えば、仮に病気が治らなくたって幸せであればそれでいいのである。

幸せとはいったい何だろう。

生きることも幸せになることも
思ってたよりずっとシンプルなのかも

ふと、わが老いた母のことを思った。目下体調も気力もすぐれぬ母の最大の敵は、医者なのだ。
不安なこと、助けてほしいことはいっぱいあるのに取り合ってくれない、薬ばかり増えると、病院へ行くたびに不信と悲しみを募らせ帰ってくる。たぶん母の説明が要領を得ないのだろうし、医者が何でも解決してくれると思っているのも甘い。

でもきっと母に必要なのは、ただ、うんうんと聞いてくれること、そして「アーユーハッピー?」と気にかけてもらうことなんじゃないだろうか。

そうか、だから私はここの病院が好きなのだ。
ドクターは毎朝私の顔を見るなり「元気だった?」と笑顔でハグしてくれて、何かあったらいつでもいらっしゃいと念押しをする。

そう言ってもらえると、少々体調が悪くても「だいじょうぶ。アイムファイン!」と満面の笑みで答えてしまい、実際に元気が出てくる。幸せとは結局のところ、あなただいじょうぶですか、ハッピーですかと気にかけてくれる人がいることなのだ。

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生きることも幸せになることも、私が考えていたよりずっとシンプルなことなのかもしれない。

そう思ったら目の前がパッと開けた気がした。私は人を幸せにすることができるし、そうなればきっと自分も幸せ。会社を辞めようがこれからどうなろうが、何を怖がることがあるだろう。

更新

稲垣えみ子さん

いながき・えみこ 1965年生まれ。アフロヘアがトレードマーク。元朝日新聞記者。退社後は古いワンルームマンションで、夫なし、子なし、冷蔵庫なし、定職なしの「楽しく閉じていく人生」を模索中。『魂の退社 会社を辞めるということ。』(東洋経済新報社)、『もうレシピ本はいらない 人生を救う最強の食卓』(マガジンハウス)、『老後とピアノ』(ポプラ社)など著書多数。近著は『家事か地獄か 最期まですっくと生き抜く唯一の選択』(マガジンハウス)。