私らしく。 by 再春館製薬所

井上由季子さん
記録ノートが教えてくれた、何げない幸せを見つける視点

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ストーリー

毎日つくるみそ汁や、通勤中に見かけた花。こうした日常の風景を切り紙や絵でノートに記録して、郵便でやりとりをする通信講座があります。講師はグラフィックデザイナーの井上由季子さん。記録を続けていくなかで見えてきたのは、それぞれの日常の小さな幸せでした。

テーブルの上いっぱいに広げられたノート。形は大小さまざまだけれど、どれも中にはびっしりと切り紙が貼られていて、ふっくらと膨らんでいます。
ページをめくると、なんだか楽しそうな会話が聞こえてくるような、不思議な感覚になります。

「このノートは、毎日つくるおみそ汁を記録している生徒さんのもの。ご近所さんからもらう野菜を使ったおみそ汁だから、具がたくさん入っていておいしそうでしょ。こっちは忙しいお姉さんにと、お弁当を届けてあげていた生徒さんのもの。全部、新聞紙を切り貼りしてつくっているのよ、すごいでしょう?」

「記録ノート通信」の生徒さんの一人、栁川孝子さんのノートは毎朝つくるおみそ汁の中身。切り紙と色鉛筆で描かれた文字にも味があります。

とっておきの宝物を見せるようにノートを開くのは、グラフィックデザイナーの井上由季子さん。楽しくてしょうがないといった表情で、ほらこれも、これも、と前のめりで話してくれます。どのページからも生徒さんたちの日々の発見や、その時の感情が立ち上ってきます。

由季子さんはもともと、同じ芸大出身の夫のセイケンさん(本名は正憲さん)と京都でモーネ工房を主宰し、ものづくりを教える寺子屋を開いていました。海の近くに住みたいと拠点を香川に移したのが2017年。それをきっかけに通信制の新しい講座も始まりました。

だから家探しの条件は、郵便局が近くにあること。頻繁に郵便を出しに行くので、いまでは局員さんともすっかり顔なじみです。

モーネ工房から車で数分、訪れた人を必ず案内しているという仁尾の海。「ここは立ち止まって心の深呼吸をさせてもらえる場所」。

日々の発見を共有するうちに
起こった変化

新たに始めた「記録ノート通信」では、生徒さんたちが興味のあることを切り紙や絵で表現し、1年に8回、そのノートを送り合います。

ノートから会話が聞こえてくるように感じたのは、どのページにも由季子さんのコメントが書かれた付箋が貼られているからかもしれません。
「これすごく好き!」「おいしそうな色!」と、ストレートな感情が走り書きされています。

通信講座と聞いて、てっきり添削するのかと思いきや、由季子さんからの返信の言葉はちょっと違うようです。

「私が感じたことをそのまま書いているだけ。ここがめっちゃいい! って。その人の素敵(すてき)なところをつっつくと、どんどん個性が出てくる。それが一番面白い」

生徒さんたちが生き生きと表現できるのは、由季子さんがそこに目を留めてくれるから。どんな反応が返ってくるのかが楽しみで続けている、と話す生徒さんもいます。

通勤途中に見かけた花を切り紙で表現している八島一恵さんの記録ノート。マニキュアや洋服を買った日は、その包装紙を使って「想像の花」を記録するそう。

ノートのやりとりを続けることで、生徒さんたちの「ものを見る目」にも変化がありました。

道端の花が咲きかけているのを見つければ、つぼみはどうなっているのだろう? 花びらはどんな形? 色は? と、目を凝らす。記録しようと思うから、もっと見たくなる。
すると、それまで何げなく見えていた日常の中にも、たくさんの発見や面白さがあることに気づくといいます。

「ある時、うちの庭のクスノキがハートの葉っぱをつけたことがあったんです。でも、その年だけだったの。不思議でしょ? 興味を持って見ていると、ちょっとした変化に気づくことができるし、見つけるとそれを記録したくなる。生徒さんたちからノートが送られてくると、今度は何を見つけたのかな、って」

ノートを送り合うコミュニケーションは、まるで手紙のやりとりのよう。相手の気づきを受け止めることで、自分の中にも小さな幸せが積み重なっていく。そんな心の豊かさがあります。

切り紙のハガキが生み出した
母とのコミュニケーション

由季子さんが、日々を記録することの喜びを実感したのは、お母さんとのやりとりがあったからです。50代の頃、突然お母さんが倒れて、要介護の状態になってしまいました。

いまから自分にできることは何だろう……。考えた末に始めたのが、子どもの頃の思い出を切り紙にして、お母さんがいる介護施設に毎日1通ハガキを出すことでした。

「母はよく、あんもち雑煮(香川の郷土料理)をつくってくれたなとか、私が体調を崩すと氷枕を用意して看病してくれたなとか。どれもこれも、書き留めなければ忘れてしまうような、ささいなこと。でも私にとっては大切な母との思い出でした」

面会日には、送ったハガキを2人で見ながらおしゃべりをする。由季子さんが見つけた日常の小さな幸せが、お母さんに届き、それが会話となってお互いの心を温めていったのです。

お母さんに毎日送っていたハガキは、新聞紙の切り抜きでつくったもの。一目で内容がわかるので、介護師さんとの会話のきっかけにもなりました。

普段、見落とされてしまいがちな小さな幸せに目を向ける。そんなモーネ工房の活動に共鳴したのが、四国こどもとおとなの医療センター(香川県善通寺市)でホスピタルアートディレクターをしている森合音(あいね)さんでした。

初めてモーネ工房を訪れた時、セイケンさんがつくった陶器に植えられた小さな多肉植物が、そっと窓辺に飾られているのを見て、「この人たちと一緒に病院づくりをしたい」と思ったそうです。

自己表現のアートではなく、訪れる人たちのことを丸ごと受け止めてくれるような優しい空間がそこにはありました。

「元気な時は美術館に飾られているような作品からパワーをもらえるけれど、しんどい時って、人はうつむきがちで、いつもは気づかないような小さなものが、ふっと目に入ってきたりしますよね。なんだかいいなあって。それで救われたりする。体や心が弱っている人たちが集まる病院には、そんなアートが必要だと思ったんです」

由季子さんが生み出すものや空間には、誰かの心にそっと寄り添う気持ちが込められている、と森さんは言います。

いま、由季子さんはボランティアで小児病棟に入院する子どもたちに毎月カレンダーづくりのワークショップを開いたり、生徒さんたちの作品を展示や販売したりと、病院内にアートの風を吹き込む活動をしています。

病院併設のカフェには、「マイカップ」をテーマに700枚の独創的な切り紙が貼られています。医療従事者や看護学校の学生たちが作成に参加しました。

季節の移り変わりを感じること、自分がもともと好きだったものを思い出すこと。それは、バタバタと忙しい日々を送る私たちが、ついつい忘れてしまいがちなものでもあります。

「小さな幸せは、自分のすぐそばにある。それに気づくことができれば、日常の中でいくらでも見つけられるはず。今日だってね、バナナの形がなんだか面白いなあって。ほらここに置くと会話をしているみたいでしょ——」

楽しそうに話し続ける由季子さん。その目に映る世界は、今日もちょっと面白くて不思議な、新しい発見に満ちています。

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井上由季子さん

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いのうえ・ゆきこ 1958年生まれ。香川県三豊市で夫・正憲さんと共に「モーネ工房」を主宰。アートやデザインを生活の中に生かす工夫や、思いをカタチにして心に届くものづくりをおこなう。『大切な人が病気になったとき、何ができるか考えてみました』(筑摩書房)などの著書がある。