おしゃべり一つで古きよき市井の情景を立ち上げ、おっちょこちょいな人間や純粋で生意気な子ども、一所懸命に働く女衆(おなごし)など、多様な人間が楽しげに暮らす様子を活写する。
そんな二葉さんの落語を観ていると、しくじっても機嫌よく生きていくたくましさや慎ましく朗らかに暮らす知恵を教わるような。語られるのは、江戸~明治時代につくられた古典落語が大半。けれど、現代を生きる私たちの心さえ軽やかにしてくれる不思議な魅力があります。
2011年に桂米朝一門の落語家、桂米二さんの元へ入門。落語の世界ではまだまだ若手と呼ばれるキャリアながら、全国を駆け回る活躍で、いまや江戸の師匠方さえ一目置く上方落語の大看板に。
近頃はテレビに登場する機会も増えた二葉さんですが、「大学を卒業するまで、人前でしゃべることが全くできなかった」と言うから驚きます。
「子どもの頃から、人前でしゃべる人への憧れがありました。あと、あほなことをできる男の子たちにも。学童の時、たかふみくんっていう二つ上の先輩がいて、『俺、砂場の砂食えるし!』とか言うてて(笑)。
食べてどうすんの!? って思うんですけど、そういうあほげなことを堂々と言うてはんのがかっこいいなと。私はえぇかっこしいで言う勇気がなかったんですけど、自分の言いたいことをさらけ出してはる感じがとってもすてき。私もそんなふうになりたいなぁと思ったんです」
SNSとは真逆?
懐深い落語の世界
見ておもしろい、ではなく、やってみたいと思う気持ちが二葉さんならでは。幼少期から抱き続けた憧れが、大学生の頃に落語と出合い開花。天職ともいうべき落語家の道をひた走る人生が始まりました。
「落語って、人前で堂々とあほなことをやって、お客さんはお金を払ってちゃんと聴いてくれる。これや! って。えぇもん見つけた! と思いました。いま、40歳を前にして子どもの時の欲求を満たしてるっていう感じがします」
噺家(はなしか)になって15年。いま、まっすぐにそう話す二葉さんは、すがすがしさにあふれています。
上方落語で主役を張る人物といえば、関西では愛を込めて「あほ」と呼ばれる人たち。他人のまね事をして失敗する人、知恵の薄い人、正直すぎて無礼な人......。
どんな人間でも身に覚えがあるはずですが、それは演じ手の二葉さんにとっても同じこと。まるで私! と共感すると同時に、幼少期のたかふみくんさながら憧れの存在でもあります。
たとえおろかな人間であっても、地域の人々とのびのびと暮らしていくことができる。「落語って、とっても寛容でやさしい世界なんです」と二葉さんは言います。
「どんなあほでも、まわりの人は『こいつ、しゃあないやっちゃなぁ』って言いながら、見放すことなく付き合い続ける。うっとうしいなぁっていう顔をしながらも、優しく教えてあげる懐深さがあるというか。あと、おしょうゆの貸し借りがあったり、人と人との距離がすごく近い。まちがった人がいたら容赦なく攻撃するようなSNSとは真逆の世界っていう感じがします」
「庶民」の目線でいるために
大事にしているもの
小さい頃、家族で暮らしたアパートの上階に、「かぁか」と呼び慕う女性がいたという二葉さん。共働きだったご両親に代わって、「かぁか」が炊いてくれたカレーを一緒に食べたり、親には話せないような悩み事を聞いてもらったり。
いま、二葉さんが落語を通して演じる世界は、これまで彼女が経験してきた大切な日常を映す鏡と言えるのかもしれません。
喫茶店や銭湯など、年齢や職種を問わず、町の人々が肩を並べて一緒にいられる場所が大好きなのも昔から。
「平和な気持ちになるんです。平等というか、同じところにいる感覚が心地よくて。普通の暮らしっていうのかな、それは落語の世界とつながってる感じがします。落語って庶民の芸能で、目線はあくまで庶民。私も落語に出てくる人たちと一緒でいたいから、普通の暮らしを大事にしたい」
落語は一種のお芝居。けれど、「自分の言葉でしゃべる」ことを二葉さんは何より大切にしています。
「自分の心に嘘(うそ)があったら、演じていても気持ち悪いし、お客さんもすぐにわからはる。やっぱり、自分のおなかから出る言葉でしゃべる。そんな噺家でいたいと思っています」
文:村田恵里佳 写真:長野陽一
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