幻
高校生のときからの仲良しと、大正時代からやっているという老舗のとんかつ屋さんに行ってランチを食べた。
休日だったのでかなり並んでいたが、お店の人が顔を出しては「もう少しお待ちくださいね〜」と優しくおっしゃるので、全く苦にならなかった。
それでわかった。並ぶことの苦痛は時間でも空腹でも外の気温でもなく、「もしかしたら並んでいることがむだになるかもしれない」という不安がいちばんなのだと。
私たちの番が来てお店に入ると、温かいお茶は葉から淹れたもので、お漬物もお店の手作りだった。
そんなお店を見つけることさえ困難な昨今、それがあたりまえだった時代を生きていた自分たちのことを幸運に思った。
名物のかつとカレーの丼をできればごはん少なめで、と言ってもお店の人はいやな顔ひとつしなかった。こちらも職人さんが目の前で揚げたかつでできていた。
「これからケーキも食べに行っちゃう? あの特別なショートケーキがあるところ!」とふたりで話しながら、いつかもっと歳をとって家から出られなくなり、こうして外食できなくなる日も来るんだろうなあ、とうっすら思った。
もうすでにそんなとんかつ屋さんも、手作りの特別なショートケーキも、幻になりつつある時代だ。
人の手が作った美しいものを、できればまだ愛でていたい。
写真:砂原 文
本連載は、吉本ばななさんのエッセイとともに写真家・砂原 文さんの写真をお届けします。
幼い頃に通った老舗洋菓子屋さんの思い出のショートケーキ。
大人になってひさしぶりに再会。あの頃と同じ味がして懐かしくなりました。
更新