弊社会長・西川通子が、ひとりの女性としての胸の内を綴ったコラムです。
家事の合間にお勝手口で、お馴染みのご近所と、ちょっと立ち話、世間話。
そんな気楽な気持ちでお読みください。

2004年 秋号

事件

お知らせいたしました通り七月のはじめ息子に社長の席を譲り、会長と呼ばれ過ごしております。名刺にもそう刷り込まれておりますが。正直申し上げて、会長のすべき仕事とはなにか未だ見当がついておりません。一つ心にあるのは先代会長であった亡き主人の言葉。「船頭が二人いると船はくるくる回って前に進まん。お前が社長だから俺は口出ししない。けれども水がないと船は浮かばん。俺は水になる」。そう言って経営の一切をまかせ”後ろからそっと支える“姿勢を崩さなかった主人。私もそれを手本にしよう!しかし、思い通りには行かぬもの。またしても、自分で自分にあきれてしまうようなことを立て続けにしでかしてしまいました。

一度目は「チューリップ事件」とでも呼びましょうか。私どもでは兄弟会社の警備会社(こちらも七月に社長を退き後を三男に譲りました)を中心に毎年五月、マラソンの高橋尚子選手や小出監督をお招きし「笑顔で歩こう、走ろう」というイベントを主催しております。ご参加くださった皆様からは参加費を頂戴し、集まったお金で幼稚園に絵本、小学校に草花などを寄贈してまいりました。今年、小学校にはチューリップの球根を四万個贈ろうということに決まったのですが。後日その担当者に「一個いくらだった?」と聞いてびっくりいたしました。実は毎年、ヒルトップに植えるチューリップの球根を買い求めております。担当者が口にした値段は、私の買値のなんと倍近く。

冗談じゃない!あなたね、何軒かの種苗屋さんから見積りをもらって、質良く値頃のお店から買うのがアタリマエでしょ?それをせず言い値で買うなんて・・・勉強不足よ!?しまったっ!と思ったのですが時すでに遅し。社長に就任したばかりの三男を飛び越え落ちた突然のカミナリに、担当者はただただ震えあがっておりました。

二度めは差詰め「エアコン事件」とでも言われるのでしょう。ある日の午後、自席に向かう途中、空調の設定温度にふと目をやって驚きました。なんと二十度になっていたのです。自分たちで二十七度と決めたはずなのに。またもや担当者を問い質してみたところ。「いつの間にか勝手に変えられてしまって」。けしからん!自分たちで決めたルールを、なぜ自分たちで破るの?そんな情けないことは許しません!

後で聞いたところ、どか?ん!と音がしそうな剣幕で「アノ社長が帰ってきた」と思った者も一人二人ではなかったとか。球根の時もそうでしたが、この時も自分のしでかしたことにハタと気づき、しばらくは消え入りそうな思いで胸がいっぱいでした。

後ろからそっと・・・なんて、とんでもない。カッとなると、決めたことも忘れ前へ出る。社長時代となんにも変わらないじゃない!そんなふうに心の中で自分を叱ってみるのですが、叱るはじから「性分なんだから」という思いが浮かんでくる始末。これじゃ決め事を破る者を怒る資格なしと、ますます落ち込み自分にうんざりしてしまいました。

その後、どうしているかと申しますと。少なくはなりましたが、相変わらず似たような失敗を重ねつつ今日に至っております。最近は、主人が亡くなった後、辛くて入れず物置のようにしていた会長室などの片付けを、時間を見つけてはしております。

こうして一つひとつの物を確かめながら片付けていけば、未だ抜け切らぬ社長気分も片付いていくのでは。そんな甘い期待を抱いていること自体が、身を退き切れぬ最たる原因なのでしょうが、いたし方ありません。これまで超高速で走りに走り抜いてきたのだから、バトンを渡した後も完全に止まるまでには、もうちょっとかかるのよ。そんな冗談とも嘆きともつかぬことを口にしては、周囲の小言を封じております。

もうちょっとがどのくらいか・・・ですって?

そうですね。ざっと考えて「あと一年くらい」かしら。

西川通子

2004年 夏号

バトンタッチ

陸上競技にリレーという種目があります。

全長四百メートルであれば、四人の走者が百メートル区切りにバトンを受け渡し走るのですが。小学校の運動会でしたリレーでは、走り込んでくる走者と次走者がバトンの受け渡しでもたついて、大きくスピードを落とすのが常でした。 しかし。さすがオリンピック級はちがいます。テレビで見た国際大会のリレーでは、全速力で走り込んでくる走者に合わせ次走者も充分に助走し、互いに速度に乗ったままバトンを受け渡すので、もたついたりスピードを落とすことがまったくありません。それを見ながら私は、知らずこう思っておりました。

いつか誰かに経営のバトンを渡す時も、かくありたいものだ・・・。

前号のこの欄でもお伝えいたしました通り、私はこの七月四日、還暦明けの誕生日前日をもって再春館製薬所の社長を退き、後を長男に託すと決めております。 長男の正明は二十歳に満たぬ年端で再春館製薬所に入社いたしました。膝元に置くなら甘えは無用と腹を括り、まだ世にあった主人とともに、周囲が「過ぎる」と言うも聞かず、徹底的な厳しさをもって鍛え上げてまいりました。そのかいあってか、本人の自覚ゆえか、定かには申せませんが。親ばかを差し引き見ても、近年ようやく、お客様との縁を託すに足る器量を備えつつあるように感じられてまいりました。 もちろん、充分と思ったのでは決してございません。皆様のご信頼をお預かりするに、まだまだ力不足であることは重々承知いたしております。しかし、「だからこそ今だ」と思い切った時、私の脳裏には先のリレーのことが思い浮かんでおりました。 私が矢尽き刀折れるまで走りバトンを渡すこともできたでしょう。しかし、それでは最後の数年、経営に必要な速度を保てなくなった私のせいで、皆様にご迷惑をおかけするやも知れません。さらにバトンを渡した後、その場に崩れてしまうようでは、長男がしかとバトンを握り加速していくか否かを見届けることもできないのです。 気力も体力も高め安定の今ならば、余力を持って息子にバトンを渡し、コースをそれぬよう見守りつづけることができるそんな思いに確信を得て、私は六十一の節目を、社長である自身のゴール、そして社長となる息子のスタートに定めたのでした。

万感の思いを込め、御礼申し上げさせていただきます。

皆様のおかげで、この上なく幸せな社長時代を過ごすことができました。

本当に、本当に、ありがとうございました。

これより先は一歩退いた所から、新社長が皆様の信頼にいかに応えていくのかを見守っていきたいと考えております。必ずや不足を充たし、皆様のお気持ちにかなうよう努めさせてまいります。また、新社長にとってお客様の意見、助言、苦言は、なににも勝る成長の糧となります。至らぬをお感じになった際は、どうぞ遠慮なくお申し出くださいませ。

さて、仕舞いにこの「お勝手口」ですが。実は次号も変わらずお読みいただこうと考えております。「経営の一線を退いたとて、女性であるお客様との胸を開いたお付き合いには、まだまだ私が必要よ!」と居座ることを決めた次第。次号よりは社長を退いた私が、なにを思い、なにをするのか、相も変わらぬ駄文に乗せお伝えしてまいります。これまでより粗忽、不調法の度は増すと思われますが。これまで通り、三ヵ月に一度お勝手口にやってくるお喋りおばさんに、一時を許す寛容をもってお付き合いいただけますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

西川通子

2004年 春号

新発意

三月三日、お雛様の日、亡き母の七回忌をいたしました。「願わくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃」。西行法師のこの句が大好きで。暑からず寒からぬ桜の頃に逝きたい・・・生前折にふれそう申しておりました。願いかなって六年前、九十二で逝った日、窓の外は満開の桜花。それを見ながら、自分もお母さんのように・・・知らずそう思っていたことなど思い出しつつ、法要が営まれる菩提寺に向かいました。

とうに八十を越えられたというのに、住職様はとてもお元気そう。お経が始まるまでのひとしきり、お話をさせていただきましたが。話が法要の執り行いに及んだ辺り。ふいに住職様が懐かしい響きのある言葉を口にされました。 「今年のお経はシンポチに上げさせますので・・・」。久しぶりに聞いたわ・・・。確か私が十歳くらい。法事の折りお経を上げにきてくださっていた、まだ若かりし住職様を周りの大人が”シンポッツァン“と呼んでおりました。シンポチがお寺の跡取りを指す言葉と知ったのは、もうしばらく後のことでございましたが。シンポチがどんな意味を持つのかは、今日までまったく知らず来ておりました。

謎が解けたのは数日後。会社で手隙の社員を探し、インターネットでシンポチを調べてもらったのです。なんのことはない。ぽんとキーを叩いただけでシンポチの謎はあっけなく解けました。ちょっと受け売りさせていただきますとーーシンポチは「新発意」と書く。仏教では、初まりの心を特に大切にするとか。初めて仏の教えに出会い感銘を受け、この道を学び歩もうと決意する。つまりシンポチとは“初心”にも似た意味の言葉で、仏道を継ぐ者の胸うちには、真新しいこの心が宿っていてほしい。そんな思いを託しお寺の後継者をシンポチと呼ぶ、ということでした。

それを知って、私には深く感ずるものがございました。受け渡し、受け継がれ。仏道に限ることなく、人の世はあまねく一代にしてあらず。先人が生涯をかけ築いたものを、後代が受けとめ繋げていくもの・・・。 しかし、問題は受けとめ方です。先人が老い去るにまかせて、棚から餅の落つるごとく降ってきたものを受ける。そのような者に新発意の心を見ることは決してないでしょう。先人が拓いた道の先、築いたものの向こうに、己の行く道、目指すものを、しかと見定め受けとめる。そうでなければ、先を行く者は、夢なく後世を憂うしか他ございません。

西川通子

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