弊社会長・西川通子が、ひとりの女性としての胸の内を綴ったコラムです。
家事の合間にお勝手口で、お馴染みのご近所と、ちょっと立ち話、世間話。
そんな気楽な気持ちでお読みください。

2011年 11月号

社員食堂の本

うれしや。この春から取り掛かっていた社員食堂の本が、ついに完成いたしました。タイトルは「再春館製薬所 ニッポンいちの社員食堂」。あまりの過褒に、気恥ずかしさでいっぱいですが。私はじめ厨房の皆が“目指しつづけているもの”にいただいた誉と心得て、ありがたく頂戴することにいたしました。

それにしても。出来上がったばかりの本のページを繰りつつ、いささかならず驚きました。毎日毎日手を変え品を変え、これほど多くの料理をこしらえてきたとは!本になった日々の賄いを、まるで他人事のように見入っているうち、知らず私の胸には、二十数年前、社員食堂をはじめたときの気持ちが舞い戻っておりました。

今でこそ、すべて手づくりを自慢にしておりますが。実を申し上げると、私どもの社員食堂は当初、とある外食業者様まかせでスタートいたしました。しかし。はじまって数日で、私は後悔しておりました。おかずは工場で八分方仕上がった出来合いばかり。厨房でするのは蒸す・焼く・揚げるの仕上げだけ。しかもメニューは慢性的な野菜不足。これではいけない。もっときちんとしたものを食べさせなければ!

一念発起してはじめたのは、外食業者様にお引き取りを願って、伝手を頼りに一人、また一人と、厨房で働く人を集めることでした。よそ行き料理の専門家はダメ。ご主人や子どもにつくってきたと同じ、心を込めた家庭料理がつくれる人。

そんな条件のもとに集まった初代・厨房隊と私は三つの約束をいたしました。「基本は主菜一・副菜三・サラダ・汁物一・デザート一」。「主菜・副菜には必ず海のもの、山のもの、根のもの、葉のもの、茎のものを入れる」。「むこう三か月間一度として同じメニューを出さないように」―今思えば無理に等しい難題でございましたが。 彼女たちとともに私も三か月厨房に入り、悪戦苦闘しながら、なんとかその課題をやり切ることができました。

本に載った社員食堂の料理はすべて、このときにつくった料理のレシピを受け継ぎ、磨きあげたものばかり。今はもう当時のメンバーは一人も残っておりませんが。料理写真の一つひとつに目をやるたび、頑張り抜いた彼女たちの顔が重なって見え、ありがとう…そんな想いが湧いてくるのでした。

春先は筍を掘りに皆で藪へ。夏、涼を呼ぶ流し素麺を思い付けば、自分たちで竹を切り、節を抜いて…。贅を尽くすとは反対の仕方で四季折々の旬を献立にのせるのも、私どもの食堂のこだわりでございます。

折しも時は秋、このつむぎがお目にとまるころには、お許しをいただいた山に皆で分け入り、拾ってきた栗を炊き込んだご飯が、食堂に笑顔の花を咲かせていると思います。それを見るのが、今からとても楽しみ。ただし、いっぱいの笑顔に気を良くして、もう一杯!っと、威勢よく食べ過ぎぬよう、今から気をつけてはいるのですが。

西川通子

2011年 7月号

三月十一日

その日、私は旅先におりました。ご同行に仙台在住のご夫婦がいらっしゃって、ずっと仲良くしていたからでしょうか。東北地方で大地震…の報を聞いた後は、お二人の心配がじかに伝わり、重苦しさで胸いっぱいになりました。それだけに帰国後、ご家族無事の連絡があったと聞いたときは、我が事のようにうれしさで胸がいっぱいに。けれども、その喜びも束の間。すぐに頭の中は、自分への問いかけでいっぱいになりました――私はなにをすべきだろうか?

熊本に帰り、息子や娘に任せた会社がなにをしているか聞いてみました 各社それぞれできる限りを尽くしていると知り、ホッとする想い。中でも、少なからずびっくりさせられたのが、次男が代表を務める病院の動きでした。

次男が石巻にある被災地の後方支援病院を訪れたのは、ようやく決めた結婚への第一歩目、結納の日の前日でございました(道路事情の混乱がつづく中、なんとかたどり着けても、果たして帰ってこられるかと、いささかならず気を揉みましたが、おかげさまで結納の時間に遅れることなく、無事帰ってまいりました)。

トラックで石巻に向った次男は、先方のご希望に従い揃えた医療資材や日用品の他に、あるものを携えておりました。それは病院職員をはじめ患者様やご家族様からお預かりした募金でした。再春館製薬所は義援金にお客様や社員からの募金を加えたものを日本赤十字社に託していました。私もわずかですが同じようにいたしました。しかし、次男たちはちがいました。募金のすべてを後方支援病院に働く方々に贈ったのです。これには私も驚きましたが、よくよく聞いてみると、その理由にはしごく納得がいきました。

後方支援病院に働く方々の中にも、住まいを失ったりご家族を亡くした方が数多くいらっしゃいます。にもかかわらず、悲しみに暮れる間もなく、不眠不休で治療にあたっておられるというお話を聞いて、次男と病院の職員たちの想いは一つになりました。被災地にとって医療は正真正銘の命綱。まず、それを繋いでいる方々を支えなければ!

「わずかですが、皆さんお一人おひとりが元気に働くためにお役立てください」。次男が言葉を添え募金を手渡したとき、病院の方々は皆、涙を浮かべ喜んでくださったとのことでした。また、次男の病院に勤めるパートの看護師が、「今日は被災地の方のために働かせていただきました」と言って、その日のお給料を募金したという話を聞いたときには、私も、目頭と胸とに熱いものが込み上げるを抑えられませんでした。

三月十一日、あの日から三ヵ月が経とうとしております。改めて被災された皆様へ心よりお見舞いを申し上げます。私たちにできることは限られております。しかしながら、これからも、そのできる限りを尽くさせていただきたく思っております。遠く離れた九州の地にも、皆様へ寄せる想いあることを、心の片隅にお留め置きくださいませ。

西川通子

2011年 3月号

うれしや。この春、熊本に待望の新幹線がやってまいります。

新幹線に乗ってお越しくださる方々には、ぜひとも熊本を好きになっていただきたい。そんな思いもあって、今私は、熊本駅のそばにある小さな山に夢中になっております。その山の名は万日山。熊本城の石垣に使われたこの山の石は、質の良さを見込まれ、熊本初の国体の際にも大量に使われたとか。当時高校生だった私は、その国体でマスゲームを演じたことを今も覚えております。

縁と呼ぶにはかすかに過ぎる縁が、まさか半世紀も経った後に、ここまで濃くなるとは夢にも思っていませんでした。どう濃くなったかと言うと。実は今、万日山の中腹に千本の桜を植える準備を進めているのです。

昨年、久しぶりに万日山を訪れて驚きました。むき出しのガケ、山水にえぐられた道、太い蔦に締めつけられて虫の息の雑木林。あまりの荒れ様に、ブルドーザーのように言われる私でも、少なからずたじろぐ思いがいたしました。けれども。私の夢の設計図はすでにできておりました。手元には再春館ヒルトップの落成祝いにいただいた桜の若木がどっさり。新幹線でお越しくださる方々を、あの山に咲き誇る、この桜でお迎えしよう!

意気さえ上がればこっちのもの!と、意気込んで作業に取り掛かりましたが、どうにもいけません。石は良質でも土は劣悪というか、いくら掘り返しても桜を植えるに足る土を得ることができず、出てくるのは石や岩のかけらばかり。花咲か爺の昔話ではございませんが、ガラクタばかりで、これじゃまるでイジワル爺…と、冗談めかしても、がっかりした気分は隠しきれず。下から土を運ぶと決めたものの、道が狭すぎて十トン車が通れず。春までにまず二百五十本という皮算用を達することができるか?と、冷や汗をかきながら、お正月ボケなどする間もなく、日々山に通い詰めております。

こんなふうに書くと、お付き合いいただいたばかりのお客様の中には、あら大変と哀れんでくださる方もいらっしゃるでしょうが。長いお客様なら先刻すべてお見通し。そう、書いているとは裏腹に、実は楽しくて仕方がないのです。縁は縁でも因縁!などと減らず口を叩きながら咲き誇る千本桜の景色を追いかける。簡単に見終わらぬ夢に汗をかくことが終生かわらぬ私の生きがいと、泥にまみれながら、今あらためて感じている次第。

新幹線開通、そして政令指定都市へ。熊本は今、大きく成長せんとしております。生まれ育った者として、この節目に花を添えることができれば…。そんな思いで植える桜は、新幹線のホームからもご覧いただけます。降り立った後は、水前寺公園や熊本城のみならず、ぜひ再春館ヒルトップにもお運びください。

あなた様にお越しいただき、生まれかわるふるさと熊本をご覧いただけたなら!「お客様とは今生の縁で結ばれている」という勝手な思い込みも、あながち絵空事ではなかった。そんな喜びとともに、胸中にまた新しい意気と勇気が湧いてくるはず…。

千本桜の夢の向こうに、私は、そんな夢も見ております。

西川通子

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