「お勝手口」図書室

弊社会長・西川通子が、ひとりの女性としての胸の内を綴ったコラムです。
家事の合間にお勝手口で、お馴染みのご近所と、ちょっと立ち話、世間話。
そんな気楽な気持ちでお読みください。

平成28年 10月号

オリンピック

思わず万歳していました。我を忘れて手に汗握りました。最後はガッカリしましたが、すぐに、よくぞここまで頑張った!という想いで胸がいっぱいになりました。この夏、ブラジルのリオデジャネイロで開かれたオリンピックの話でございます。

昔からオリンピックは大好きでした。しかし、その檜舞台に社員を送り込む日が来るなどとは、夢にも見たことはございませんでした。

リオ・オリンピックに、バドミントン女子の日本代表として出場した山口茜は、昨年スタートした再春館バドミントン部の新人選手でございます。北陸は福井で生まれ育ち、地元の宝とまで言われた彼女が、数ある実業団チームのオファーを蹴って再春館に入ると知ったときは、門出にこれ以上のはなむけはないと心からうれしく思いました。しかし。大志を胸にやってきた彼女を迎えたのは、四月熊本を襲った大震災の報せでした。

そのとき彼女は転戦先の外国にいたのですが。すべての試合を終えて帰国した後、部の皆とともに、被害の大きかった益城町に向かいました。再春館の地元でもある町の方々の苦しみを、少しでも和らげることをしたい。その一心を胸に訪れた避難所で、彼女は思いもよらない喜びに出会いました。励ますつもりで声をかけた方々から、「オリンピック出場おめでとう!」「頑張ってね!」という励ましの言葉をいただいたのです。

世界ランキング四位の格上選手を見事破り、進んだ準々決勝は、まさかの日本人対決となりました。対戦した奥原選手は、それまで幾度も戦って、勝つどころか1ゲームも取れぬ相手でした。試合は日本時間の早朝にあったのですが、社員の多くが会社に集まり、激しく行き交うシャトルの行方を追いかけ声援を送りました。益城町をはじめ県内のあちこちでも、多くの方がテレビを前に熱く応援してくださっていたそうです。

この試合で彼女は、難攻不落の奥原選手から初めて1ゲームをもぎ取りました。しかし、2ゲーム目の途中辺りから、奥原選手の巧妙な試合運びに翻弄されはじめ。3ゲーム目も健闘したものの、最後は寄り切られ敗北を喫しました。

どちらかといえば言葉少ない、大人しい子。そんな彼女が試合後、涙で声が詰まるのもかまわず、こう語りました。「たくさんの方々の想いを背負って戦いました。その想いをかなえられなかったことが悔しいです」。

たくさんの方々の想い…そう言った彼女の胸には、励ますつもりで訪れた避難所で、熱い励ましをくださった方々の顔が映っていたはずです。

本人に確かめてはおりませんが、私は今もそう信じております。そのことを思うたび、胸に熱いものがこみ上げてきて。あなたが熊本に来てくれて、本当によかった。力を振り絞って、みんなの心を一つにしてくれた。この強く心優しい子に、四年後の東京で、うれし涙を流させることができるよう支えてあげたい…そう強く強く思っているのでした。

西川通子

平成28年 7月号

熊本地震

あのころ、私はシンガポールにおりました。昨年引き受けたバドミントン部の大切な試合がありました。一度目の激震があった翌日、ニュースで知った人が、熊本が大変なことになっていると教えてくれました。選手の中に八代と玉名出身の者がおりました。心配して実家に電話をしたところ、「たいしたことはない」という返事だったので胸をなで下ろしました。たいしたことがなかったのは、震源地から少し離れていたゆえ、ということは後で知りました。

翌日、震度7を告げるニュースを目にしました。昨日の地震のことかと思い見ていましたが、それは一度目以上の強い揺れをもって、建物だけでなく、立ち直りかけていた人々の気持ちまでを無残に折った本震の報せでした。震源地はまたしても再春館ヒルトップのある益城と知ったときは、背筋に冷たいものが走りました。

それからは、地震一色になったテレビを食い入るように見つづけていました。熊本城が映りました。天守閣の瓦が落ち、茶色の下地がむき出しになっていました。石垣の石が音を立てて崩れ、もうもうと土埃が上がっていました。テレビゆえ土埃のせいではありませんが、胸の奥から込み上げてくる涙をとめることができませんでした。

今すぐ帰らなければと思い荷造りをしていたところに、三人の息子それぞれから「危ないから帰ってくるな」という命が届きました。この一大事にのうのうとしていられるかと思いましたが、後にも先にもないであろう災厄に、死力を尽くし立ち向かっている息子たちを信じ、ここはすべて任せるが私の務めと思い切りました。

帰国を許されたのは、それから三週間ほどたった頃でした。とるものもとりあえず再春館ヒルトップに向かいました。そこかしこが大きな傷を負ったことは一目で見て取れましたが、その多くは休まず復旧に当たった社員たちの手で癒されていました。思っていた以上に復旧が進んでいたことよりも、自らも被災しながら、社の立て直しに力を尽くしてくれた社員たちの意気に、ただただ頭を垂れる思いがしました。

今、息子たちは社員と一丸になり、熊本に育てられた会社として、震源地となった益城町の一員として、できることを探し取り組んでいます。再春館ヒルトップもほぼ元通りとなり、ご不便をおかけしつつも皆様のご用命にお応えできるまでになりました。

二度の激震を越え、打ちつづく余震におびえ暮した社員たちは口々に、皆様より賜った励ましのお言葉がなによりうれしかったと申しております。得難いお心をいただいた社員たちは、未曾有の災厄に見舞われたといえ、なお幸せ者だと思っております。本当にありがとうございました。

熊本に生まれ、熊本を愛し抜いて、今日まで生きてまいりました。残りいかばかりか知れぬ余生を、この地に捧げられれば本望でございます。折れた骨が、接いだのち強く逞しく甦るように、復旧を越えた復興をめざし、志を同じくする人々と心一つにしてまいります。これからもお心をお寄せくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

西川通子

平成28年 4月号

完成

昨年の基本4点につづき、先月の準備3点と日中ケアをもって、ドモホルンリンクル8点の進化が完成…とは言っても、そこに至るどこにも私は関わっておりません。社長を退いてからは、何事も任せるが仕事と、口出ししたい気持ちをグッと堪えつつ十余年。ようやく一切を任せて憂いなしの心境にたどりつけたように感じております。

かつてドモホルンリンクルには私抜きで夜も日も明けぬ時代がございました。3、4年ごとに磨きあげ、進化を重ねてきましたが。試作品のすべてを自分で試さねば気がすまず。意に染まぬときは、納得するまでつくり直させる。もちろん、ともに試した社員たちと意見をぶつけあっての果てに、ですが。最後の断は私。当たり前にそう思っておりました。

縁あって引き受けた再春館製薬所、そこにあった一風変わった名前の基礎化粧品。それが素晴らしい素質を持つとわかったからには、どこにもない光を放つものに育てあげたい!社長時代の私はその一心のみを胸に突っ張り、突っ走っておりました。ですから。一線を退いたときも、進化の断は私…という思いが消え失せてはいなかったのです。

けれども。退いてしばらく経った後、それが翻るような想いがするひと言に出会いました。それを言ったのは、誰あろう我が娘。

「お母さん、いつまでも自分の肌で決めていたら、お母さん世代の人にしか喜ばれないドモホルンリンクルになっちゃうんじゃない?」。

思いもしない言葉。にわかには意味がわかりませんでしたが。気を取り直して考えてみると…ごもっとも。私も立派な婆となった。このまま自分の肌頼みでは、「三〇代からのシワシミひとすじ」に歩んできたドモホルンリンクルに道を踏み外させかねない…。そんな想いが湧いてきて。それを潮に、試作品の吟味は社員たちに任せようと心したのでした。

それ以降、私は磨きあげの過程に一切関わらず。完成品の出来栄えだけを試し、そのたび、立派に進化していることを実感して、荷を下ろすような想いを胸にしてまいりました。

しかし、今回はちょっとちがっていました。

「出来上がりました」と持ってこられたものを使って、驚いてしまったのです。私の意志を継ぐ者たちが、私を頼むことなくつくりあげたドモホルンリンクル。それが、かつてないほど私を満足させ、まぎれもなく史上最高と実感させるまでに仕上がるとは!

飛び上がるようなうれしさが先走りました。すぐに、乗り越えられてしまった!という口惜しさが追ってきました。さらに、お役御免と引導を渡された寂しさも迫ってきて。どの想いが勝つのか。しばしの間、追いつ追われつを眺めるように感じていましたが。いつしか、晴れ晴れとした気持ちの只中にあるを感じ。気が付くと、独り言のように胸のうちで、こう呟いていたのでした。

やったぜチクショウ!

西川通子

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